| 1.T社F社長 |
| T社の創業社長は一代で大阪の中ノ島に大きな自社ビルを作るまでに会社を大きくした。しかし、子供に恵まれなかったので、大手取引銀行の頭取にその銀行の重役を後継者として来てもらうように依頼した。かくして、1978年にその銀行のF常務取締役がA社に顧問として来た。 |
| 翌年、F氏が副社長として社長に代わり陣頭指揮を開始した。しかし、運悪く、オイルショックの余波を受け、業績は大きく低下した。当時産能大学の研究所にコンサルタントとしていた私は、会社の建て直しを依頼され、1980年の9月からA社に行き、F副社長とコンビで建て直しの戦いに入った。1981年末、会社は危機を脱した。その後、F副社長は社長になった。 |
| このF社長の風貌は信長に似てやせ型であるが、美声で、よく声は通り、言語明晰であった。会社の危機脱出のリーダーには適切な人であった。私がシナリオを書き、F社長が完璧に演じた。F社長は、声がいいのでカラオケはうまかった。しかも、当時からカラオケセットを家に置き、練習していた。十八番は「大阪しぐれ」であった。プロ並みであった。当時、私はカラオケなどの趣味はなかったが、F社長と夕食の後、曽根崎のクラブに行くと1曲くらいは付き合いで歌わねばならなかった。当時は、レーザーカラオケなどない頃で、ピアニストがアルバイトで歌い手に合わせてくれた。約20年前のこのときが、私とカラオケのつきあいのはじまりとなった。私が当時、付き合いで歌った唯一の曲が「小指の思い出」で、これが自然に後の十八番になった。 |
| 2.R社S事業部長 |
| 1988年頃、福山のほうにある大手のR社の改善指導は、事業部別に順次行われた。最後の事業部の部長はS氏であった。この事業部の改善は、1990年となった。S氏は、まだ、40才台の若手部長であった。営業出身のせいか、これがまた、カラオケがメチャクチャにうまい。裕次郎の「ブランデーグラス」が十八番である。しみじみと歌う。 |
| 私は、大阪のF社長にカラオケを突き合わされてから約10年になったが、この間、次第にカラオケに浸り、この事業部の改善の頃は、毎週のようにスナックで10曲以上は歌っていた。あるとき、このR社の若手の1人と、何曲歌えるか試してみようということになり、7時半頃から、夜中まで、空いているスナックで、交互に歌い、2人で25曲、合計50曲歌い、ついに声が出なくなってきたことがある。 1990年頃が、私のカラオケ遍歴、最高の頃であった。歌える曲は100くらいになり、演歌はもとより、若い人の歌まで挑戦した。 |