| 浅間山 |
| 大学生時代に上田の信州大学寮にいた高校時代の友人を誘い浅間山に登った。5月のはじめであった。そのとき、寮にいる彼の後輩が同行したいと言ったので、3人で登った。 |
| たしか、私は大学寮に前泊したように思う。翌早朝、汽車で追分に行き、そこから浅間の頂上を目指した。追分口は直線的に頂上に行けそうなので、若気の至りで、この経路を選んだが、実は急坂で、最後ははって道なき道を登るようになった。天気はよくなく、頂上に近くづくに従い、霧で囲まれ出した。 |
| しかし、なんとか頂上についた。しかし、あたりは霧で数メートル先しか見えない。そのうちにヒョウが降り出し、白く積もりだした。火口に近づいたとき、突然、雷光が走った。ギザギザでなく、直線的に柱のように音もなく次から次に光が垂直に走った。友人の帽子からはみ出した髪の毛が上にむかって立ち出した。それを指摘すると「お前の髪もそうだ。」と言われた。 |
| あわてて、髪に指を触れるとパチンと光が走った。3人、顔を見合わせた。もう、体が帯電している。恐怖で顔が真っ青になった。「下に向かって走れ」となった。しかし、頂上は平坦でかくれるところもない。たまたま、大きな岩があった。隠れたが、ここはかえって雷が落ちやすいのではないかと思い、また走って、平らなところに伏したが、これもまた、危ない。どうしようもない。ついに、死を迎えたと覚悟した。 |
| そのとき、私の口から出たのは「南無阿弥陀仏」でなく「南無八幡大菩薩」であった。これは戦争のときに弾に当たらないように前進するときの念仏であるというのが頭のどこかにあったからだ。20分くらい走ったり、伏したりして下の方向に走り、ようやく危機を脱した。九死に一生を得た。後から考えると、3人とも登山靴でなく、ゴムの運動靴であり、ピッケルもなかった。リックも金具がなく、紐で結ぶタイプであった。 |
| 浅間山は、芭蕉の「更級日記」に出てくる。当時はさかんに噴火していたので、俳句は「吹とばす石はあさまの野分哉」である。激しい山であったようだ。私には「春雷や、われを走らすあさま哉」となった。この無茶な登山は、計画の重要性、リスク管理の必要性を死の危険をもって教えてくれた。今は、新幹線となった信越線の窓から見える浅間山を見ると、このときの教訓を思い出す。 |