スポーツの思い出:野球 (H14年3月3週号)
 鈴木宗雄議員の記事に力を入れた「週刊新潮」は売切れであるという。
 その「週刊新潮」に有名人が自ら読者にいろいろなことを依頼するコーナーがあり、あるとき、敵役で有名な俳優が、小学生時代の同窓会開催を呼びかけていた。その呼びかけの中で当時の草野球の思い出を書いていた。これは私も同様である。
 戦後、すぐ、どこでも、草野球が盛んであった。中学生時代、放課後、ボールやバットなどないから、テニスボールで手打ち式野球をやったり、布でボールを作ったり、人が集まらないと三角ベースで野球した。私は、スポーツも本で情報を得るタイプなので、戦前の野球の本を古本屋で買い、アメリカの火の玉投手、ボップフェラーのワインドアップ写真を見て、そのまねをして投手をした。当時は、それはおかしな投げ方だと言われた。
 このように、自分達で考え、実行するという楽しみが、当時の遊びにあった。
 今の子供は、すでに出来上がったシステムでスポーツをやるから、ある意味で工夫して自分達で変えていくということが少ないように思う。
 野球はサラリーマン時代に、社内の対抗戦などに軟式で出たのが最後で、20歳台後半で終わりである。私のポジションは投手が主で、スナップスローの軽い速球が中心であった。後半は、決め球にはシンカーを使った。今で言うとフォークボールのように垂直に落ちる武器である。フォークボールほど落ちないので、打者が気付かないときがある。コントロールが良かったので、三振もとったが、軽く素直な玉なのでホームランもよく打たれた。
 投手は、やはり27,8歳の頃が最高である。力と打者の心理の読みがバランスするからだ。それ以後は、打者の心理の読みはよくできるが、玉が思ったように走らなくなる。打者としてもよく打った。ホームランバッターでなく、ライナー性のヒットが多く、インコース低めの玉は好物であった。
 吉川英治の宮本武蔵に、武蔵が食事しているとき、飯にとまるハエを簡単に箸でつまんで取り除くという話がある。それを連想したのか、家で重い硬球用のバットで、飛んでいるハエを狙って振った。これが結構、当たって落ちるのである。
 同期に、野球部から当時の国鉄スワローズに行った町田選手がいた。ホームラン王になったと思うが、腰を痛めて、若くして引退した。セリーグの審判をしていた松橋氏も同期である。彼は主審もよくやったので、同期でテレビに一番長時間出たのは、彼である。もっともマスクしていることが多かったが。