| 池田氏は中学の同窓である。しかし、これは後に、彼が有名になって知ったことである。彼は、満州からの引き揚げなので、途中から入学したせいであろう。 |
| 彼は本の中で、中学生のときの絵の先生の思い出を書いていた。この先生の影響を受けたということであった。その絵の先生がラジオの徳川無声の「宮本武蔵」のファンであるらしく、授業中に無声の真似で宮本武蔵の話をしてくれたと書いてあった。これで、私もその先生の記憶を思い出すことが出来た。私もこの先生の武蔵の話を絵の授業でよく聞いたからだ。私は、すでに徳川無声のラジオはよく聞いていたので、この先生の影響はなかった。 |
| 1973年、私は一人で、アメリカのマネジメントを視察するため、3週間ほど、出かけた。このとき、私の知人の同級生にH氏という画家がおり、ニューヨークのダウンタウンにいるから会ってくれということで、ニューヨークに泊まったとき、彼を訪ねた。 |
| H氏は、私の中学の1年先輩で、芸大の出身であり、前衛的な作品で日本では賞も取ったが、アメリカに行ってからはぱっとしなかった。私がH氏とニューヨークで会ったとき、池田万寿夫氏はすでに有名人であった。池田万寿夫氏は芸大を受けて、2回ほど失敗し、ついに諦めてアメリカに行き、下積みの後、版画で成功した。 |
| H氏とニューヨークで会うとき、電話したら、ダウンタウンの夜は危険だからH氏がホテルに迎えに来ることになった。初対面であるが、ホテルのロビーで待っていたら、すぐに分かった。芸術家らしく、髪はぼさぼさで、あごひげが長かった。作業着みたいなジャンバーを着ていた。彼の案内で、危険な夜のニューヨークの地下鉄に乗り、ダウンタウンの彼のアパートに行った。 |
| たしかに彼と一緒だと安全だった。彼の奥さんと下の部屋に住む彫刻家の若い夫婦と、中華街に食事に行った。当時、中華街ではアルコールはだめとのことで、途中で缶ビールを買って持ち込んだ記憶がある。食事後、ある暗いバーに行った。日本人が多く、彼らは売れない芸術家であると言っていた。かって、池田万寿夫氏も有名になる前はこのバーの常連であったという。当時、そのようにして、いつか成功を待っている日本人芸術家は、数百人いたという。 |
| H氏はその後、長野でも個展を開いたという。私も1点購入したが、池田氏ほど有名にはならなかったようである。池田万寿夫氏は、60才を記念して長野市に記念館を作ったが、そのオープン前に急死した。まだ、若い死であった。 |