故山本七平氏のことは、今の中年以下の人はあまり知らないのではないだろうか。同氏が有名になったのは「日本人とユダヤ人」というベストセラーが出てからである。この著者名はイザヤベンダさんという外人で、山本さんは訳者である。しかし、このベンダさんは実在するのか不明であった。おそらく、山本さんであろうという。山本さんの肩書きは、山本書店の店主であった。山本書店は、キリスト関係の専門書を発行している小さな書店であった。
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その後、山本さんは精力的に本名で独特の日本人論を展開する。私はすっかりファンになった。そして、私が関係する催しで誰か講演を頼もうということになったので、私は山本さんを推薦して、それで決まった。事務局の人と四谷の山本さんの仕事場に講演依頼に行った。これが山本さんと会った最初だった。
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四谷駅の近くの狭い住宅街にある事務所に行き、そこの木製の古い狭い階段を登った。2階に山本さんの書斎というか、仕事場があり、高い書棚に囲まれた狭い机で仕事をされていた。ベストセラー作家としては意外に質素であった。講演の趣旨を言ったら、快く、引き受けてくれた。一緒に行った事務局の人が「あまり予算がないので、10万円でよいでしょうか。」と聞いたら「結構です。」と即答された。非常に物静かな親しみやすい感じの人であった。その後、山本さんとは講演会でお会いしただけであった。
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ところが間接的に山本さんが関係した話題が出たことがあった。それはある会社のコンサルティングのとき、社長が米人なので、社長と面談のとき、同時通訳に、松本道弘さんがついてくれた。松本さんはNHKの講師もやっていた人で有名であった。この松本さんはディベートというアメリカの討議のゲームのような手法の専門でもあった。同時通訳をしてもらった後、私は松本さんに山本七平さんと朝日新聞の本多勝一記者との議論のやりとりをディベートの見地から意見を聞いた。驚いたことに松本さんは両者のディベートの判定役をやったということであった。松本さんは、山本さんに軍配をあげていた。
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このディベートとは、中国大陸で日本軍が戦っているときに、日本の中尉2人のどちらが先に日本刀で中国兵を千人切るかという「千人斬り競争」が日本の新聞に掲載されことが事の始まりである。これが戦後問題になり、この記事のため、2人の中尉は戦犯で死刑になった。
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この事実について山本さんと本多さんの論争となった。山本さんは、戦争中、砲兵中尉でフィリピンに行くが、その体験で日本刀は多量殺人に向かない武器であることを技術的に説明する。日本刀は自己調達であった。山本さんは部下が戦死し、埋葬するときに、死体を切るために、初めて日本刀を使ったそうだが、すぐに刃こぼれして斬れなくなったという。そして、日本刀は血で錆びやすいので研ぐ必要があるが専門の研師でないとできない。
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当時、中国大陸では研師は3人しかいなかったという。それと、日本刀は刀と握り手が一体でなく、目釘という釘でつながっている。だから、人を切って抵抗があるとこの釘に抵抗がもろにかかるので、ぐらぐらになる。中国の青竜刀のような柄と本体の一体型ではない。日本刀は精神的な象徴として意味があるが、大量殺人向けではないという、山本さんの説明は、確かに論理的、技術的で明快であった。本多記者は、中国でヒアリングをして、日本軍のひどさから推論していたが感情的であったので、松本さんのディベートでは根拠が弱かったのであろう。
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この2人の中尉は最後まで無実を訴えたが、戦後、死刑となった。
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