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1991年頃から足掛け4年くらい、ある工場の工場改善とそれにつぐISO9000取得のため、コンサルティングで佐野市によく泊まった。
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ホテルの朝食食堂に中年のウエイターがいた。ホテルの朝食でなじみになり、「サービスです。」と言って、いつもコーヒーを入れてくれた。聞くと昼は絵の塾の先生をしているという。本人は小田原の人である。3年位前から、仕事の都合で、奥さんの里である佐野に来たという。温暖の地の小田原から、寒い空っ風の佐野に来たが、最初は手が荒れたという。
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佐野はラーメンを売り物にしている。店は百軒くらいあるという。コンサルに来ていた会社の食通の人に、どの店がうまいか聞いた。紹介された店は、駅からホテルに行く途中にある。老夫婦だけの店で、夜8時頃にホテルに入るともう店は終了で暗い。あるとき、早めにホテルに入ったので、夜6時半頃、食べに行った。「ラーメン下さい。」と言ったら「中華ならある。」と言われた。私はラーメンの通でないので、世間的にうまいかどうかは分からないがおいしく食べた。
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佐野は、昔、陸軍の戦車隊がいた。その戦車隊に20歳くらいの司馬遼太郎がいた。この戦車隊は、最初、満州にいたが、戦争が次第に太平洋に移るにつれ、佐野に転進した。もう戦争は末期に入っていて、アメリカ軍の本土上陸が話題になっていた。あるとき、司馬遼太郎が上官に、「もし、アメリカ軍が千葉あたりに上陸し、そのため戦車隊は、その方面に行かなくてはならないとした場合、逆に戦火を逃れて来る市民で、道路は一杯になり、戦車の移動は困難である。どうしたらよいか。」と聞いたと言う。上官は「そのときは仕方がない。ひき殺してでも、前進するのだ。」と言ったという。
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当時、20歳くらいの司馬氏は、国民を守るべき日本軍が何故、その国民を殺すのか、疑問に思ったという。そして、なんで日本はこんな戦争を始めたのか、そんな愚かな民族なのか、ということが彼の多くの小説の動機になっていると書いている。佐野はその原点なのかも知れない。
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