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日本のTVは、サッカーで一色だ。ワールドカップで韓国と日本の関係はよくなるだろうか。
私が、韓国を最初に訪問したのは、1986年4月で、ソウルから車で1時間ほどの水原(スイゲン)に1週間泊まったときである。ここは、今回のワールドサッカーで、予選3試合、トーナメント1試合が行われる。水原は朝鮮戦争のときに、激戦があって有名だったとのこと。歩いて登れる高台があって、ここから市街が一望できる。
1986年に、ここにある大手の工場の現場長研修とコンサルのために1週間行ったのである。私の現場リーダー訓練のスライドが、韓国語になったのがあり、研修にはこれを用いた。このときの通訳がW氏であった。私と同じ年齢だから、韓国では小学生時代は日本語教育が行われていたので、日本語がうまく、それでビジネス関係の通訳として独立して活躍していた。
私の講義中に、休憩があったが、受講生の中の一人の若者が、私のところに来て、流暢な日本語で「どうも通訳の訳がよくない。韓国語は、日本語と構造が同じなので、簡単である。先生は、韓国語を勉強して、直接、韓国語で講義をしてもらいたい。」と言ってきた。
日本の我々の世代は、平和ボケであるが、韓国の同じ世代は、朝鮮戦争で大変であった。W氏は18歳で自動小銃を持って戦い、最初、韓国側であったが、北鮮側に移り、また、韓国に戻るという数奇の人生を送った。彼はこの戦争で親兄弟をなくし、天蓋孤独の身であった。
小柄でやせていたW氏は、父親知らずの男の子がいる30歳台の女性と同棲のような生活をしていた。しかし、年を取ったら、貯めた金でミニバンを買って、一人で韓国の田舎を回りながら、車暮らしで放浪の旅をするのが夢であると言っていた。青春時代を戦争で失い、普通の家庭を持つ夢はなかったようだ。
その壮絶な人生にひかれたのか、私は、この訪問のときに、W氏に意見を求め、独立を決め、帰国して、退職届を出し、3ヵ月後に会社を作った。
この韓国訪問のとき、1週間、水原のホテルに泊まったが、最後の夜は、W氏と会社の人の夫婦2組と夕食をした。その後、大きなディスコに行った。最初、舞台で演歌のような歌を年老いた歌手が歌った。W氏は「西沢さん、日本語の歌は絶対だめですよ。殺されますよ。」と言った。16年前のことである。今回、W杯で初めて日本語の歌が、韓国で歌われるようになったのは歴史の流れである。
その後、ディスコの曲に変わり、聴衆は舞台に出て踊りだした。W氏は私に踊れという。薄暗い大きな舞台で、若い人の群集に混じり、私も勝手にメチャクチャに体を動かした。下着が汗でグチョグチョになった。この下着はホテルに捨てた。W氏は、何か太極拳のような踊りをしており、曲のテンポを完全に無視していた。
翌日、ソウル空港までW氏とその同棲の女性が、車で送ってくれた。車中で、女性は頭痛がするという。私が、仁丹を与えると、すっと直った。しかし、怒っている。W氏に理由を聞くと、「私が頭痛なのに、もっと早く、仁丹をくれるべきである。」と彼女が言っていたと言う。私は「韓国語で言われても、貴方が頭痛であることは分からない。」と、W氏に韓国語で言ってもらい、ようやく機嫌を直した。わがままな人であったようだ。
W氏は、「韓国人は日本人と違い、誰でも、明日、自分は大統領になれると本気に思っている。」と言っていた。この2年くらい後に、W氏は、日本に1回来た。東京で会ったが、その後は音信不通である。今は、サッカーで多忙であろうか。それとも夢の放浪の旅に出たであろうか。
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