ヤクザハウス(H14年6月4週号)

 ムネオハウスの鈴木議員が逮捕された。そこで、私の実家のヤクザハウスを思い出した。

 私の実家は、長野の旧市街地にある。隣家はヤクザの親分が借りていた。だから、映画の寅さんではないが、流れ者が泊まる宿になっていた。私が幼稚園の頃、ある若いヤクザが、私を連れてタダでサーカスに連れて行ってくれ、一番前の席をとってくれたことを覚えている。その若いヤクザはサーカスに顔がきいたのである。そのヤクザはすぐいなくなった。

 小学生くらいになって、大道で香具師がガマの油を売っていて、刀を出し、傷をつけて出血してもガマの油で出血がピタと止まると言っているので、私はじっと傷を付けるのを座って待っていた。しかし、その香具師は傷をつけないでごまかして売っていた。家に帰って母に「インチキだ。」と言っていたら、翌朝、隣の家からその香具師が出てきた。

 そのうちに、上州の女親分が子分に追い出されて一人で流れて来た。もう70歳くらいの老婆であったが、背が高く体格がよく、眼光が鋭く親分らしい威風を感じた。3年くらい一人で暮らしていた。ある2月の記録的な寒波到来の朝、私の母は隣家で全然、物音もしないのでおかしいと思い、戸をあけて見たらコタツの火は消え、その老婆が凍死していた。壮烈、悲惨な女親分の最期であった。

 その後、東京が空襲になり、焼け出された浪曲師の一家が住むようになった。一家は浪曲師とその妻とちょっとチャーミングな一人娘の3人であった。娘は、私より3つくらい年上であったと思う。オヤジの浪曲師は、盛んに娘に浪曲を教えていたのが聞こえた。

 戦争が終わり、この浪曲師は浅草に帰ることになった。最後の夜に近所の人を呼んで、つきあいの感謝だといって、タダでそのヤクザハウスで浪曲会を開いた。そのとき娘さんが初デビューということで、練習していた浪曲を披露した。私は中学生ぐらいであったが、前の方で熱心に聞いていた。その浪曲師一家が浅草に帰ってどうなったか、娘さんは女浪曲師とて成功したのかは、その後聞いていない。

 その後、弁護士一家が来た。東京の一流大学を2つも出たというかなりインテリの弁護士で高校生の女と男の子供が2人いた。男の子は東大を目指して浪人していた。こんなインテリ家族がなんで東京から地方のヤクザを頼って流れてきたのか不明であった。2年くらい住んで、また東京に戻って行った。その後男の子が東大に受かったかは聞いていない。

 その後、警部一家が長い間住んでいた。私が東京に就職してからたまに家に帰っても、その警部一家が住んでいた。非常に真面目な警部で出世コースを進んでいたという噂であった。奥さんも子供も実に真面目であった。なんでこのような人がヤクザハウスにいるのか分からなかった。子供さんも優秀で、一流大学を出たということを風の便りに聞いたことがある。ヤクザハウスの住人はこの警部一家が最後であった。

 今から20年くらいであろうか。その家が売りに出され、隣家の私の家に買わないかと誘いがあった。母の話だと、高く吹っかけたのでやめたということであった。そこで別な人が買って住むようになり、ヤクザハウスの歴史は終わった。