日本の無思想
(H18年2月2週号)

1月に養老孟司氏の「超バカの壁」が発刊されたが、それよりも、年末、読んだ同氏のちくま新書の新刊「無思想の発見」ほうが面白かった。「超バカの壁」はご本人が書いた箇所と新潮社の人が談話をもとに書いた部分とあるが、「無思想の発見」は、全部、ご本人が書いたものだという。日本は無思想という自覚した「思想」をもつことの強調がある。

並行して文芸評論家の加藤典洋氏の「敗戦後論」をちくま文庫で読んだが、典型的な哲学的な表現で、技術系で現場育ちの私には苦手な文章である。よくこのような難解な文章が書けると感心する。同氏の「日本の無思想」(平凡社新書)が、図書館にあったので読んだが、この本の「あとがき」で著者は「私の本は難しいと言われるので、この本は、そのまま、普通の人が読めるように書いた。」とある。なるほど、少し平易であるが、やはり、迂遠な論理に悩まされたが、幅広い視点が得られた。「超バカの壁」の中でも「本音」について、「日本の無思想」が引用されているので、養老氏も読んでいたのであろう。

養老氏は、敗戦で「教科書に墨を塗った」という大人の「裏切り」に接した体験が、その発想の原点にある。だから、養老氏は裏切られない死体解剖をあえて選び、ホンダ、ソニー、松下の戦後の精力的な活躍も、「技術は裏切らない」ことが基礎にあるとしている。氏の解剖に基づく「日本人の身体観の歴史」は、解剖を基礎とした文化論のためか、分かりやすい。

加藤典洋氏は、戦後生まれであるから、「教科書に墨を塗った」体験はないが、「敗戦後論」では、敗戦後の「裏切り」「ねじれ」を文芸評論の観点から真正面に論じている。例えば、作家大岡昇平は「国が禁止した捕虜になったという恥ずべき汚点がある。」として芸術院会員を辞退する。作家太宰治の対応にもふれている。

「ねじれ」は大きな外圧で価値観の変更を強制されたときに発生する。「日本の無思想」によると日本は明治維新で同じ「ねじれ」を経験している。強力な欧米勢力である「黒船」の前に屈せざるをえなかったからである。自分たちの思想から自生的に生まれた政府ではない。確か、評論家岸田秀は「黒船で日本は強姦された心理を持っている。」と言っていたような気がする。

当時の福沢諭吉の「やせ我慢の説」というのが興味をひく。勝海舟は旧幕臣であったのに、それを倒した明治政府に仕えた。その「裏切り」批判である。辞職を要求する。福沢も旧幕臣である。勝海舟は、そんな内部の「やせ我慢」より、大きな外圧の危機に瀕した日本全体を考えたら変節は仕方がないと考えたのであろうか。だから、日本には近代思想は育たなかったということか。同様に、太平洋戦争の敗北で、三百万人の戦死者に目をつぶり、強制された憲法に安住している間に思想は消滅したということか。明治憲法も戦後の憲法も外圧からの「ねじれ」が残っている。文明の辺境にある日本の宿命か。

日本は思想的に憲法靖国も清算しておらず、逆に、ライブドア騒動のように次第に何かを喪失しているのかも(このホームページの息抜きコーナーの「ライブドア騒動:06年2月1週号」参照)。