|
正月が近づくと、「祖母がなくなったので、年賀は失礼します。」というように、黒い縁取りをした年賀欠礼のはがきが来ることが多い。しかし、80才台の長寿でなくなっていることが多いので、天寿を全うされたと、ひとまず、安心である。
ところが、18日の夜、経営工学会よりメールで東京都立科学大学工学部生産情報システム工学科の教授である坪根斉氏の訃報が来た。60才である。若すぎる。
実は、彼とは30年位前に産能大学時代に同じ釜の飯を食べた仲である。私が産能大学のコンサルタント修行に入ったのは、1970年である。坪根氏は、それより1、2ヶ月遅れて産能大に入ってきた。私より10歳年下であるが同期の桜である。コンサルには、一緒に行き、同じ宿に泊まるので、まさに同じ釜の飯を食べた仲であった。
コンサルでは、最初、ブロイラーの改善をしたが、彼は、若いので、嫌な役回りである鶏を殺す工程の観察をすることになった。ストップウオッチで測定するのである。血しぶきがとぶ工程である。私は、鶏小屋のほうの観察だからノンビリしたものであった。
昼飯に、その日、殺した鶏のフライが出た。私はおいしいと言って食べたが、彼は箸をつけなかった。
彼は、論文を書くのが好きで、同様に私も毎年論文を書いて、全国能率連盟の発表会に提出した。受理されると、発表のための旅費、宿泊費が学校から出る。発表は地方都市をもちまわりで行うので、論文を出すと、学校のお金で観光旅行ができる。2人でせっせと論文を出した。大会は2日くらいあるが、論文を発表する30分だけ大会に出ると、後はさぼって、2人で観光した。盛岡市のときは、八幡平の国民宿舎に泊まった。富山市のときは、黒部ダムを回った。山口市のときは、萩に行った。遊びでも同じ釜の飯を食べたことになる。
私の論文は、実務中心であったが、彼は次第に数学モデルを用いるようになり、東大のコンピュータを借りたりしていた。そういう新しい知識への貪欲さがすごかった。そして彼は次第に、コンサルよりも研究のほうに傾斜していった。次第に研究で成果を出し、別の大学に行き、さらに研究に没頭した。そして、彼は若くして、東京都立科学大学工学部生産情報システム工学科の教授となった。私は彼の推薦で、経営工学会の正会員になった。しかし、最後に会ったのは数年前、経営工学会で渋谷の青山学院の構内であった。彼の教え子の発表に指導教官として立ち会うために来ていた。
産能大の頃、彼はゴルフにこった。そのうちに、ジョギングにこった。他の大学に行ってから山登りをするようになった。
彼が、産能大をやめてから、あまり、会わなくなり、年賀状のやり取りだけになった。平成11年の年賀はがきには、「昨年は延べ80日間、山登りをしました。」と書いてあった。
このように、健康で、前途洋々たる彼であったので、18日の訃報は、何かの間違いではないかと思った。20日の通夜に出先の東京から、斎場の町田市に行った。関係者に聞くと膵臓ガンであったという。昨年まで元気で土日はほとんど山登りであったという。平成12年の年賀状には、「ぼつぼつ、遊びの比率を高めようと思います。」とあったので、それを次第に、実行していたのであろう。
それだけに、彼にとっては無念の死であったであろう。
私は両親の死は覚悟していたので、あまりショックではなかったが、彼の死には、公私共に同じ釜の飯を食べたほぼ一回り若い同志であり、それぞれの力を評価していた仲だっただけに、やりきれない寂しさを感じた。
来年から、もう、彼からは年賀状は来ない。
ご冥福をお祈りする。
|