寒河江・紅花・月山(H15年10月4週号)

1.駅名・路線名
以前、東海道線のキップを買うとき、申し込み用紙に「六合」と漢字で書いたら、中年の駅員に、「これはどう読むの?」と聞かれた。「ろくごう」と答えた。プロがこれでは困ったことだと思った。

山形県の寒河江(さがえ)に行くので、やはり、キップの申し込み用紙に漢字で書いた。今度の駅員は、若くて、頭のよさそうな顔をしていた。「『さがえ』行きのキップですね。」と正確に発音していた。
寒河江に行くには、山形から30分ほど、左沢線に乗り替える。この漢字がまた、くせものである。これは「ひだりざわ」ではない。「あてらざわ」と読む。私のパソコンは正確に文字変換してくれた。

2.紅花(べにはな)
近くの河北(かほく)町には、紅花資料館がある。会社の人の案内で行く。資料館のある谷地(やち)には工業団地があり、偶然、昨年、天童に泊りながら、この団地にある工場に数回来たことがある。

江戸中期より、この地の紅花は、北前船などで染料や口紅として、京都に渡る。この紅は、純金くらいの価値があり、ここの堀米(ほりごめ)家は、その紅花で財をなした。その約3千坪の屋敷後が紅花資料館である。

奥州というと、芭蕉の「奥の細道」である。芭蕉は、近くの尾花沢の清風(鈴木八右門)という金持ちの家に泊る。この清風も紅花商人である。ここで、芭蕉は、はじめて紅花を見る。その句が「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」である。
紅花は、京都の舞妓の口紅にもなったりしたという。「まゆはき」は、おしろいを塗った後、眉の部分のおしろいを除くための昔の化粧道具である。その形が、芭蕉が見た紅花の形に似ていることからきている句である。

紅花は、奈良時代に中国産の花が渡来してきたらしい。しかし、山形県が産地として有名になるのは、江戸時代中期で、日本の中では遅いほうである。戦国時代、谷地(やち)の城主白鳥長久が信長の能力を早くから評価し、良馬を贈った。信長はお返しに紅花を与えた。
たまたま、白鳥長久の城の周辺が、紅花栽培の適地だったせいか、江戸時代に紅花の産地として栄えるようになる。とんでもないところに、信長が関係していたものである。信長の殖産感覚の優れた一面がうかがえる。

3.月山(がっさん)
寒河江の町から、遠くに月山が見える。快晴でなかったので、山頂は薄い雲がかかっていた。しかし、山形はなだらかである。高さ2千メートルくらいであるが、上には万年雪があるという。雪が深すぎて、かえって、冬は、スキーはだめなところがあるという。

森敦氏は放浪の作家である。氏は、「月山」で芥川賞を受賞する(1973)。氏は、鶴岡の寺の住職から、鶴岡から、六十里越街道を入った月山の山中の寺で過ごしてみないかと言われ、夏にその寺に行く。老年の男女の寺守と過ごす。秋に去ろうとしたら、寺守に「紅葉を見ていきなさい。」と言われ、さらに泊る。

私は、数年前に、酒田の会社の車で、酒田から、六十里越街道経由で山形市まで走ったことがあるが、当時は、ダム工事と高速道路化で近代化されており、昔の姿はなかった。

この寺で、森氏が見た紅葉はすばらしく、山頂から、次第に染まってきて、オーケストラのような音がしたという。それを見たので満足して寺を去ろうとしたら、また、寺守に「雪を見ていきなさない。」と言われる。
こうして、20メートルほどもある積雪の真冬を、この山寺で過ごす。この体験が「月山」の小説のもとになる。寺守の男は、中風である。深い雪の中、毎日、割箸を作るだけの生活である。春がきて、この世を去る。その生き様は、人生とは何かの原点を問うものである。

森氏は長崎の出身なので、深い雪を知らなかった。そこで、放浪しながら、雪を見たくて、この地方に来た。夜、雪はたくさん降っても、音がしない。しかし、何か、目で見なくても、音がするような気がする。その気配で、窓を開けると大雪である。これを雪国の人は「しんしん」と表現する。「雪がしんしんと降る。」というのは雪国の人しか分からない表現であろう。「異音」などという「バカの壁」はない。
氏によると、上記のように、紅葉も音がするという。その音は表現のしようのない音だったのであろう。

氏は、芥川賞受賞とともに放浪生活から、一挙に有名人となる。しかし、受賞したのが、もう、60才代である。作家としては晩成である。77歳で永眠された。