203高地と28サンチ砲
(H16年6月4週号)

今年は、日露戦争がはじまって、百年になる。私は、20年位前に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で日露戦争を読んだ。この中で、203高地の戦いは、圧巻であるが、20年間、どうも司馬遼太郎らしくない個所が気になっていた。

その個所は、いよいよ、児玉参謀の指示で、28サンチ砲の角度を203高地に合わせるところである。ここで、児玉は砲兵隊長に、24時間以内に角度を変えるように指示する。しかし、専門家の隊長は、そんなに短時間で不可能だと言うのである。
というのは、28サンチ砲はもともと要塞砲なので、土台をコンクリートで固めるからである。乾くのに時間がかかる。司馬氏は、この乾燥時間が日露戦争中に次第に改善され、最初は30日くらいかかったのが、1週間くらいに改善されてきたことをふれてはいる。
しかし、児玉の要求は、24時間である。ところが、これができてしまう。
24時間後に、203高地に対して、28サンチ砲の砲撃が開始され、間もなく、多くの犠牲を出した203高地は陥落する。

何故、24時間で乾くことができたのか、司馬氏の本ではそれが抜けている。精神論では不可能である。児玉が怒鳴ったからできるものではない。対応できた優秀な技術者がいたのである。この疑問がなかなか解けなかったが、文芸春秋6月号の日露戦争特集で「有坂成章:『世界最優秀小銃』の威力」という軍学者・兵頭二十八氏の解説で、ほぼ、納得できた。やはり、コンクリートの技術者がいたのである。

兵頭氏は、有坂成章の技術者としての活躍を書いているが、203高地の要塞攻撃に28サンチ砲を使うという、ものすごいアイデアは、この人のものであるという。この大砲がなかったなら、児玉の天才的な力をもってしても203高地の戦いはどうなっていたか分からない。その28サンチ砲は、有坂の設計でもある。
そして、現地での砲床構築の班長に起用されたのは、横田穣という人で、これも有坂が目をかけて送り出した、コンクリートの専門家であった。これで、24時間でコンクリートが乾いた理由が解けたのである。

製造業の戦いも現場を含めた総合的な技術力で決まる。精神論ではない。だから、戦後の日本製品の、品質の画期的な向上は、私は、製造技術力の向上にあると見る。TQCの精神論では説明できない。十万人というメタルカラー層にその成功の理由がある。
日産もゴーン氏のマネジメント力だけではない。日産の技術力があったからである。しかし、アメリカでは、今、部品のトラブルで、日産は大きな岐路に立っているという。コストの下げすぎか。

日露戦争までは、日本軍は技術的発想が根底にあった。それが昭和になって、精神論が強くなる。戦争に負けても、同じことが繰返される。「バカの壁」の養老教授が東大の助手時代に、学生運動が盛んになる。その集会では、竹やりで戦意を高揚していたという。戦争を否定してできた戦後で、戦争中と変わらない風景を見たと養老教授は書いている。
製造業では、私は、TQCや紙をたくさん書くと品質が向上するという品証担当の技術音痴に、昭和の日本軍の、精神主義の変わらない姿を見る。

日露戦争はそうではなかった。
この兵頭氏の解説で、実は、有坂氏の功績は、三十年式小銃の開発にもあり、ロシアより優秀な小銃を開発し、これが日露戦争の勝利を支えたという。
兵頭氏によると、圧倒的に優秀なロシアの騎兵部隊を常に退け、奉天会戦に至る勝利をもたらしてくれたのは、秋吉好古の日本騎兵隊の働きでなく、日本軍の歩兵部隊が普通に装備していた三十年式歩兵銃の弾丸威力だったという。
これに児玉源太郎のマネジメント力が加わり、日露戦争は戦略的に勝ちだったのである。

さらに、この児玉、有坂を抜擢した山縣有朋の人の力量を見抜く力が、日露戦争をバックアップしている。

このように歴史を見ると、参考になるし、人は案外、歴史に学んでいないことに気がつく。