昭和30年代、私は30台くらいのプレス工場の生産管理をしていた。当時のプレスは順送りがなく、単発プレスと言って、工程数が多かった。鉄板は2ミリ未満なので、30トン台のプレスが中心であった。
当時、プレスに安全装置はなかった。だから、型に材料を入れるとき、型に指をはさむ怪我が多く、ベテラン職長は手の指が欠けている人が多かった。大きな鉄板を小さく短冊型に切るシアリングという機械があるが、これで右手首を切断した人もいた。
当時、私は、毎日夕方、当日の進行を見て、翌日の予定表を作っていた。工科大学の生産管理の教授の指導で機械別の時間目盛りになっていて、鉄道ダイヤのようなものであった。
夕方、職長は、私の机の前に立って、打合せする。ときどき、彼は指で予定表を指す。私がこの計画の仕事を始めたとき、その指にギョッとしたものだ。指先が何本も欠けているのである。しかし、これは当時、プレス職人の誇り(勲章)でもあった。
昭和30年代後半、高度成長時代に入り、機械加工が増えると機械による日本の労働災害は増大した。社会的にも政治的にも問題になった。労働基準局の管理がきびしくなった。
プレスにはすべて安全装置がつけることが強制された。そのため、作業スピードが落ちた。曲げ加工などは、1日7千個加工していたものが、3千個になった。予定表は変えたが、ベテラン職長は「バカにするな」と予定表を無視して、わざわざ、安全装置を外し、作業をすることがあった。
私の現場上がりの部下はある日、遅れた予定を挽回するために現場に応援に行き作業を行い、ついに指先を落とした。急いでいたので、安全装置を外してプレス作業をしたからであった。昭和40年代は、そういう安全管理の戦いであった。
数年たって、次第に、安全装置は当たり前になった。作業者の注意力でなく、機械的な装置でポカミスを予防することが常識となった。
安全装置の設置だけでは、生産性は低下する。しかし、生産技術の進歩で、順送り加工が増加し、工定数が減少し、人手による工程が大きく減った。けとばし(フットプレスのこと)といって、ベテラン女性が、1日2万個も加工していた工程があった。これは指先を傷つけるくらいの怪我ですんでいたが、これに安全装置をつけたら、やはり、4千個くらいに落ちる。しかし、これもほとんど自動化された。
型もガイドポスト型といって、上型、下型が一体となり、今までの型の上下のすり合わせ調整の職人芸が不要となった。また、型の質もよくなり、故障は大きく減少した。
総合的に生産性が画期的に向上した。
こうして、高度成長で生産性が向上しながらも、機械による労働災害は大きく減少するようになった。生産性と安全は対立するものではない。対立すると考えるから、経営上、当然の要求である利益追求を要求されると、すぐに安全を犠牲にするのである。
生産性向上を安全向上とともに考えることにより、知恵が出るし、利益追求と安全の要求が一体となっている現場で守りやすい方法が生まれ、無駄のない安全作業ができる。
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