朝鮮戦争と三十八度線
(H17年6月4週号)

有名なジャーナリストである大森実氏の「戦争秘史」第8巻の「朝鮮の戦火」は、25年前の発行であるが、次の文章で始まり、25年後の日本を予見していたことが分かる。

「1950年(昭和25年)6月25日は、日本の国家的性格と戦後の進路を決定づける歴史的な日となった。」

この日は、朝鮮戦争が始まった日である。日曜日である。
憲法解釈でもめることになる自衛隊(当時警察予備隊)の誕生、日本経済の高度成長の原点がここからはじまる。破産しかけたトヨタもここから現在の隆盛に向けて走り出す(この「息抜きコーナー」の「7・歴史」の「朝鮮戦争とトヨタ:H15年8月3週号」参照)。

大森氏は、北朝鮮には特別の思いがある。氏は1941年に神戸高商(現在の神戸商大)を卒業し、日本窒素(現・チッソ)に就職する。当時、北朝鮮には同社の巨大工場があった。

チッソの創業者、野口遵は、1926年に北朝鮮に行き、水と電力を主原料とする窒素生産をここで行うことを考え、巨大な工事を行う。1929年、3大人造湖がつくられ、6万5千キロワットの大水力発電所が稼動する。そしてさらに、発電能力は、翌年には53万キロになる。太平戦争末期の1944年には、世界第2位の70万キロワットの水豊発電所が完成する。
そして、日本の敗戦までに北朝鮮の総発電力は、200万キロワットにまでなる。
戦後高度成長期の1975年の日本の総水力発電量が2250万キロワットであるから、その巨大さが分かる。
この巨大工業力が、5年後の朝鮮戦争の際、北朝鮮の軍事力の背後にあったことは否めないであろう。

この本を読むと三十八度線で何故、南北が分かれたのか分かる。実は、それは歴史的な境界線で、明治の伊藤博文政権のとき、日清戦争後、南下するロシア勢力を阻止するため、対露妥協案が三十八度線であった。当時の日露議定書にあるという。
その後、日露は日露戦争で直接対決することになる。
日中戦中、日本陸軍内でも、三十八度線の北側を関東軍が所轄、南側を第十七方面軍が統括した。敗戦でソ連軍が関東軍を解体し、アメリカ軍が第十七方面軍を解体し、すぐに、冷戦時代となり、次第に三十八度線を境に南北朝鮮が固定する。
三十八度線は、長い間、大国の政治的な妥協で、朝鮮半島を丁度、半分にする線なのであろう。大国の狭間にあり分裂した朝鮮国民の南北統一の歴史的な心情も分かる気がする。

朝鮮戦争で北から進入してきた戦車は、最初、アメリカ軍のバズーカ砲の玉を跳ね返し、アメリカ陸軍兵士は恐怖におびえたという。北朝鮮の戦車はソ連の最新鋭のもので、その鉄板はアメリカのバズーカ砲ではびくともしなかった。あわてて、口径の大きなバズーカ砲が作られ、補給され、ようやく効果を出したという。
いかにアメリカがこの進入を予想していなかったかが分かる。