| 盛岡駅前のタクシー乗り場をタクシーが、次から次に、今着いたばかりの新幹線から降りた客を乗せて流れて行く。もう、夜の8時過ぎである。私もその一人。タクシーに乗り、いつものホテル名を言う。通常は、ホテル名だけ言えば運転手は「わかりました。」と、15分ほどのホテルまでスムースに行く。
とろが、その夜の運転手はちょっと考えてから「あの古い銀行の建物で、啄木の記念館の近くのホテルですかね。」と聞く。啄木の記念館など知らないから、別の目標を言ったら「分かりました。」と言って走り出した。
ホテルに近づいたら、その運転手が「ほら、これがその記念館です。」と言って通過した。もう夜の9時近くだから真っ暗である。啄木の記念館は生地の渋民村にあることは知っているが、盛岡市内にあることは知らなかった。
ホテルで聞いて、すぐそばに啄木と賢治の青春記念館があることをはじめて知った。2人とも学校は盛岡中学(旧制中学)で学んでいて青春時代を盛岡市で過ごしたことから、青春記念館となっているとのこと。賢治は生地の北上に立派な記念館が別にある。
この青春記念館は夕方6時まで開館しているということなので、次のときに、盛岡着午後4時半の新幹線「はやて」にした。ホテルにチェックイン後、記念館に行った。歩いて1分もかからない。ウィークディの夕方なので、記念館はガランとしていて私一人であった。無料である。入るとコーヒーの匂いがした。コーナーに喫茶店がある。上品な老婆が1人でコーヒーをのんでいた。静かであった。30分くらいでざっと見学できた。
たしかに建物は明治頃の洋風である。国の重要文化財に指定されている。その1階に啄木と賢治の盛岡時代の資料が展示されていた。啄木は、明治19年生まれ。賢治が29年生まれだから、盛岡中学で同じ頃にいたことはないだろう。
昔の金庫室だったのであろうか。囲まれた部屋に入る。音と光の体験室ということで、5分くらい説明や音が流れる。3面と天井にある絵が光により昼と夜に変わる。正面は雄大な岩木山の絵である。暗くなると夜景になり星座が浮かびあがり、天井に銀河鉄道の汽車が走っている絵が映る。
青春館の資料で「銭形平次捕物控」の著者、野村胡堂が盛岡中学で学んだと初めて知った。明治15年生まれ、昭和38年76才で他界。テレビの銭形平次は、若くして急死した俳優大川橋蔵の当たり役であった。主題歌は舟木和夫。今度、村上弘明が平次役、主題歌は松山千春で4月からテレビ朝日で始まった。
米内光政(明治13年生れ、昭和23年68才で逝去)も盛岡中学の出身である。昭和15年に総理大臣となるが、陸軍の圧力のため半年くらいで内閣崩壊。日独伊の3国同盟と日米開戦に反対し、東条英機と対立し、戦犯に問われなかった。
東条英機の父東条英教陸軍中将も岩手生まれで、日清戦争で活躍。東条英機は東京で明治17年に生まれ、昭和24年65才で戦犯として東京で刑死。「捕虜となる恥を受けるくらいならいさぎよく死を選べ」という戦陣訓を出した。阿南陸相は8月15日に敗戦責任をとり割腹自殺したが、東条英機はピストル自殺に失敗する。それも敗戦後の9月に米軍が逮捕に来る直前である。戦陣訓を守らなかった。このため、東条英機のトップとしての責任追及は戦勝国主導の東京裁判で行われたため、いまだにすっきりしないようだ。
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