「もっと物質的なことばで」
(H17年7月1週号)

この本は1977年(昭和52年)に発行された。著者の浦上卓氏は内科医師である。1963年に永井友二郎,原仁,村松博雄の各氏ともに、「大学教育や各種の学会が教えてくれる医学・医療を待つのではなく,自らの問題を自らで解決しよう」と、“人間を中心においた総合医療”をめざして「実地医家のための会」を設立。お互いの研鑽・修練の場と同時に、医の倫理を根底に捉え,生涯学習の場として運営されてきているという。
この本は医者の立場からの随筆集であるが、当時購入した動機は、本の最初に書いてあった次のエピソードの解説に惹かれたからである。

1966年(昭和41年)の8月、アメリカのテキサス大学の26階の時計台から、温和で優等生のホイットマンがライフル銃を撃ち出し、かけつけた警察官に射殺されるまで約五十人にタマが命中し、十五人が死亡した事件があった。
彼の死体解剖の結果、彼の脳の「扁桃核」に腫瘍ができていたことが原因であることが分かった。「扁桃核」は人の怒りに関係する部分であることは脳医学でわかっている。
著者は、この事件にふれ、もし、死体解剖でこの事実が分かっていなかったら、彼の不可解な行動は、家庭の不和、性的ノイローゼ、近代物質文明による人間疎外などで、知ったかぶりの評論家により説明され、人々は、それに満足したのではないかと述べている。
私は、これをヒントに、工場などの不良品の原因追求や対策に「精神論的な」言葉を嫌い「もっと物質的な」内容を要求するようになった(このホームページの「05年6月5週号」参照)。だから、30年ほどたっても、いまだに、この本は手元にある。

この本の出版の3年後、昭和55年11月、神奈川県川崎市で就寝中の46歳の父親を次男(当時20歳・浪人生)が金属バットで殴打し、父親は即死、続いて、別室で寝ていた46歳の母親も同様に殺害されるという事件が起きた。いわゆる金属バット事件である。
この事件は、日本社会に大きなショックを与えたが、その後、未成年者による親、先生、友人、そして無関係者への殺人が多発する。いわゆる「キレ」やすいという現象である。
これが日本人の子どものどのような脳構造の変化から来ているのか明らかではないようである。しかし、最近の測定技術の革新的な進歩で、脳の活動の分析も進んでいる。
例えば、子どもがテレビゲームをやると脳がどのように活動するかも分かってきている。また、幼児のときから夜更かしの癖がつくと脳のある部分が未発達であることも分かってきている。脳は、栄養が必要な物質である。だから、子どもの食事内容の変化も脳の発達との関係で問題になっている。「バカの壁」の養老教授がいうように、人の世界は脳の活動の反映である。脳の活動は、まだまだ、謎を含んだ物質の活動であるが、社会現象も「もっと物質的なことば」で説明する努力が欲しいものである。
NHKのクローズアップ現代で過労死をとりあげ、過労の客観的測定方法の開発が進み、先端的な心拍とウイルスによる「物質的な」測定が紹介されていた。過労死の予防になる。

なお、この本で、経済評論家は敗戦直後の日本の「終身雇用制」「年功序列制」は時代遅れと言いながら、その後の高度成長で日本が繁栄すると、逆にこの2つの制度の功績であると言い出したことを皮肉っている。そして、この考えは、科学のように実験不可能なので、どちらか正しいかの証明は不可能であると言っている。同様に、一時悪者のように言われた日本の自動車産業の「ケイレツ」が最近復活しつつあるというが、これも良し悪しの証明は単純に不可能である。これらの評論家は「もっと物質的に」語れないだろうか。