今、日中間でもめている尖閣諸島の問題があるが、もっとはるか南に「西沢島」があった。
明治40年(1907年)8月、日本人西沢吉治氏は、台湾の南西海上、香港とフィリピンの間にある無人島に上陸し、上陸するや、「西沢島」という標柱をたてた。
人数を3百人ほど集める。十ヶ条の西沢島憲章を作った。精巧な紙幣も発行した。電話線も、トロッコも、地下の水道管も敷設された。一つの国家を夢見たのであろうか。燐が豊富でこれを売って利益を上げた。
当時、海にあまり関心がなかった大陸国家の清国政府もこれに気がつき、翌年、日本政府に抗議が来た。交渉の末、すでに日本人の活動実体があるので、清国が買収して正式に清国領土にすることになった。日本側は島の値段を決めるため、国勢の弱くなっている清国への脅しもあったのか、軍艦三隻でこの島に来た。三隻のうち「明石」の艦長は鈴木貫太郎大佐である。後に海軍大将となり、約40年後の太平洋戦争終結のとき内閣総理大臣として終戦処理をした人である。結局、38万円として評価して清国も日本の言い値で承知した。現在の貨幣価値にすると10数億円程度になろうか。吉治氏の手元に残ったのは10万6千円で、投資した資本よりはるかにすくなく、大きな損失となった。
こうして、西沢島は一年ほどで消滅し、清国領の東沙島となった。
この西沢吉治氏の次男が西沢隆二氏(1976年・昭和51年没)である。詩人でペンネームは「ぬやまひろし」。共産党員であるが除名されても戦中は獄中で転向せず12年間過ごす。戦後、徳田球一と活動するがその後、また除名される。
上記の「西沢島」のことは、司馬遼太郎の「ひとびとのあし音」に出てくる。この本は、司馬遼太郎が描く英雄・豪傑の物語と異なり、親友の正岡忠三郎氏(正岡子規の養子:昭和51年没)と西沢隆二氏の両名と各々の家族など周辺の身近な市井の人々の生死を書いたものである。これらのいわば、無名の人々が、女性を含め、英雄豪傑のように生き生きとして、愛情をもって描かれている。われわれ、英雄豪傑でない人生を送っている者にとって、それなりに多様な人生の意味を感じ、ほっとする本である。しかし、これは個性的な大正・昭和が背景にあるようだ。ロマンなき平成はどうか。
この本では正岡忠三郎は、忠三郎と書かれているが、西沢隆二のほうは、漢字でなく、カタカナで「タカジ」として登場する。隆二はよく「リュウジ」と読むことが多い。私もタカジと読む。しかし、中・高学時代は「リュウちゃん」と呼ばれた。家族・親族は「タカちゃん」と呼ぶ。
最近、定期健診にかかりつけの医者に行ったら、新顔の看護師が「西沢リュウジさん、どうぞ診察室にお入りください」と言った。命を扱う人が名前にきびしくないと危険であると思ったので、「タカジです」と訂正を求めた。
学生のころ、本屋で「ぬやまひろし」の本を見て、その本名が同姓同名で、かつ、読みもタカジの人がいることを知った。それから、興味を持った(息抜きコーナーの9.私事雑感の「西沢姓のこと:H14年9月2週号」参照)。しかし、このひとの詩集は読んでいない。
司馬遼太郎とタカジの関係は、50才頃、この「ひとびとのあし音」を読んで知った。 |