世の中、スピーディになると、何かせわしく、味気がないということでスローライフが見直しされている。ファーストフッドに対して、スローフッドが登場したようなものである。
定年後は、のんびりと、新幹線の旅とは逆に徒歩の旅をする人もいる。雑誌日経マスターズのホームページに、定年で退職した人が東海道を徒歩で東京から京都まで歩く日記が掲載されていた。しかし、過去の歴史的な叙述が多く、現在社会の描写が少ないのは残念だ。
これらは、効率の否定でなく、「ムダの効用」の発見である。過去にムダと思ったことが、ムダでなくなったのである。スローライフでも、人は損得を離れられないのであろうか。
私は時々スポーツクラブに行くが、車で数分もかからない。運動に行くのに、わざわざ、車に乗る。バカらしい。歩くと30分である。往復1時間でちょうど、よいウオーキング運動になる。しかも、少し長い坂道があるので、下肢の筋肉活動にもよい。歩くことにした。スポーツクラブで駐車すると駐車料金を取られるが、これがなくなった。小額であるが結果的に経済的にも少し得していることにもなる。
自宅から最寄り駅まで歩いて15分である。今までは、駅近くの駐車場まで、車で数分かけて行き、そこから駅まで、3分くらい歩いた。しかし、そんなに頻度がないから、最低料金区間のタクシーを使ったほうが駐車場料金よりはるかに安い。それに歩くことが気にならなくなると歩くことが心理的な負担にならない。スローライフのほうが経済的、効率的である。結局、駐車場をやめた。
そういう面で見ると、「楽である」「便利である」ということで意思決定したとき、逆に、何か大きな利益を失う犠牲(コスト)の上に成り立っていることが多い。この見えないコストを専門的には「機会原価(opportunity
cost)」という。
数年前、ある政府の外郭団体で主催した生産管理関係の職業訓練のカリキュラム作成に参加した。そのとき、ある大学の原価専門の助教授に「機会原価と機会損失(opportunity
loss)の違いは何か」と質問したら、答えに窮した。これは、私の「生産士コース」のテキストに書いてある基礎的な知識であるが、すでに、生産管理理論の場でも大学の知的レベルの崩壊がはじまっていた。
機会損失とは、選択したことに対する後悔の程度を示す。だから、答えは簡単である。機会原価ゼロはありえない。しかし、機会損失はゼロがあり得る。
例えば、旅行に行くとき、交通費、宿泊費以外に、その旅行をしないで、自宅でのんびりしたときに得られる利益を犠牲にしているから、そのコストを加算したものがこの旅行の機会原価である。しかし、好天に恵まれ、予定通りに進み、旅行に十分満足したとき、機会損失はゼロである。すなわち、その日の旅行に対する後悔はゼロである。
ある方向を決めるには、機会原価がありゼロはない。それを承知で決心したか、反対したかである。われわれのすべての行動に、コストゼロはありえない。
JR西日本の大事故で国鉄民営化が原因であるという見方があるが、民営化しない場合でも、起きていたかもしれないから、そういう考えには民営化の機会原価の発想がないようだ。
そういえば、敗戦後60周年、考えてみると機会原価発想なき、戦争であった。
郵政の民営化論争や政争も同様である。日本人はあまりかわっていないようだ。 |