| 電気部品メーカーの最大手のアルプス電気の創業者である片岡勝太郎氏が10月23日、八十九才で逝去された。口腔底がんとのこと。
私が大学を出て、アルプス電気(当時は片岡電気と言っていた)に入社したときは、勝太郎氏は専務で、他の重役とともに面接のときに始めてあった。そのとき、「君は技術者よりマネジメント向きだなぁ。」と言った。その通り、私は勝太郎氏から、翌年、係長代理なのに新工場の百人ほどの品質管理・検査課を任された。
勝太郎氏は、今の神戸大学の技術系の出身である。東芝の課長であったが、辞めて確か菊名電子という小さな会社を起こすが、さらにここをとび出し、自分で片岡電気を作る。十人に満たない会社である。これが後に一代にして、関連会社を含め、最大二万人ほどの電気部品メーカーに成長する。
勝太郎氏は、四人の男の兄弟がいて、勝太郎氏は三男だと思う。しかし、口八丁手八丁の能力を持ち、弁舌は滑らかで、文章は名文であった。字も名筆であった。実質は社長であった。私が入社したときは、千人を超える規模の頃である。国立大の卒業生が十人くらい入社したが、国立大卒の入社は最初であり、急成長のスタートの年であった。
勝太郎氏は、戦時中は陸軍中尉で日中戦争に派遣されたようである。戦後、その感覚で中小企業の経営をしたので、軍隊のようなマネジメントだったらしく、一時、アルプス士官学校と言われた。当時、勝太郎氏は中小企業でも人材が必要だとして、有名私大の教授に依頼し、その優秀な卒業生を一名推薦してもらった。ところが、この期待されて入社した大卒者が、入社して組合を作った。会社は直ちに解雇した。それが不当労働行為として訴えられる。地区労の赤旗を振られるなど、大変な労働争議になった。結局、示談となるが、会社はこれに懲りて、大学の先生など顧問に入れ、組合に近い従業員代表により構成する委員会制度を作るなど、労使関係の改善を行った。
私が入社したときは、この反省でかなりマネジメントが変わった後であった。
私は、入社三年目で、この委員会の委員長に選挙で選ばれた。当時、すでに従業員数は四千人くらいになっていた。技術屋の私がはからずもまさにマネジメントの本命に入った。
労働争議に懲りて、勝太郎氏は、労使協議会を毎月、開催した。机をコの字に並べ、右側は重役など会社側、左側は各職場代表というように並び、同氏と私が並んでコの字の真ん中に座った。会議が始まる前の何分間、横いる勝太郎氏と私的な会話する機会があったが、企業経営の生きた本音や経営者の孤独の声が聞けた。最大のマネジメントの勉強になった。
会社が急成長するにつれ、骨肉の争いが生まれた。四人兄弟は分裂し、長男は株を売り飛ばし、残ったのは、次男と三男の勝太郎氏だけとなった。会社の一つの危機であった。
勝太郎氏は社長になり、会社も一族の名前から、アルプス電気と変えた。
私は、委員会の委員長としては三代目であったが、それまでは、勝太郎氏と同じ釜の飯を食べてきた人が委員長をしていた。私は、そういうシガラミがなかったから、今まで、ボーナスの要求をしてこなかったのを、委員会側から要求するようにした。このため、会社の財務諸表を読み取ることが必要で、労働法規の勉強とともに、財務の勉強もした。コノ経験が後にマネジメントコンサルタントになったときに非常に役立った。
そのほか、委員会活動は、私のアイデアで、広報活動を変えたり、委員会の労使宣言書を作ったりした。この宣言書は、三年ごとに見直すという変わったアイデアに基づいていた。
そして、ちょうど、委員会制度が十年になったので、十年史を編纂し、五千部ほど発行した。これが後に日経連の労使協議制の資料となった。
こうして、委員長経験を五年したが、その間、労使は安定した。委員長は専従でないので仕事が多忙であると労使協議会を欠席することがあった。すると勝太郎氏から強制的に呼び出された。
四年目のときに、勝太郎氏に合弁会社に転向を命ぜられた。本来なら、ここでアルプス電気の職員でなくなるので、私は委員長職を失うのであるが、勝太郎氏は総務に横車を押して、私を両方の生産管理の係長として兼任させた。そして、委員長の職を継続させた。
五年目を迎えるときに、社長室に呼ばれ、半年後の抜擢の話となった。そして、その間、後継者を育成するように言われた。同期が係長時代に、正式の課長職になった。
五年を終わり、合弁会社に移った。今のアルパインの前身である。最初の年は赤字であった。アルプス電気から勝太郎氏の命でやり手の重役が来た。しかし、急病で倒れた。結局私の手腕に任された。一年で黒字にした。その年のボーナスはすごかった。
この会社が、福島に移転するのを機会に、3ヵ月後に退職したい旨の退職届を出した。企業戦士になることを嫌ったからだ。小学生時代に、教科書に墨を塗った経験がある私は、「バカの壁」の養老氏同様、世の動きにさめているところがあった。
会社を辞めるときに、社長室に挨拶に行った。「抜擢したつもりなのに残念だ。しかし、幹部は、去る者は追わずが、私の信念だ。」と言われた。これが勝太郎氏と会った最後になった。今から、三十五年前のことである。
私が退職した二年後、オイルショックで、会社は始めて希望退職者を募ることになる。それまでは、成長、一筋であった。
アルプス電気は、技術力よりは、経営力、マネジメント力で伸びてきた会社である。最初、電子部品メーカーとしては、技術力のあるミツミ電機がトップであったが、アメリカに輸出するテレビにUHFが義務づけられることを早期にキャッチし、そのチューナーのアメリカのメーカーと技術提携をして成功する。当時、アメリカに輸出する日本のテレビはアルプス電気のチューナーなしで輸出できなかったので、アルプス電気の本社がある雪谷をもじり、雪谷通産省と言われた。これで一気にミツミ電機を抜いた。しかし、このUHFの先取り案は、重役会では、勝太郎氏のみの提案で、失敗すれば責任をとるということで認められたと、勝太郎氏は私にもらしたことがある。
その面で今の職業のために、よい経験と勉強になったと思う。
心から感謝の念とともにご冥福を祈りたい。 |